令和5年9月30日(土)と10月1日(日)に当寺で信明院殿御崇敬が
執り行われます。当寺が宿寺となるのは実に45年ぶり。
現在、準備の真っ只中。
その準備をこのブログに残していくことにしましょう。
本日、当日参拝者の方々に配布するパンフレットが届きました。ラクスルで私が自作しました。
その中にも書きましたが、今日は「御崇敬の由来」を書きましょう。
参拝者に理解してもらえるように出来るだけ分かりやすい言葉を選らんで書きましたが、
間違ってもいけないので苦労しました。由来はこうです。
浄土真宗の教えとは、阿弥陀さんのお力により往生できるというものです。
1760年ごろ、越前地方(今の福井県)を中心に、「阿弥陀さんのお力で往生が決まるのであれば
私たちの方ではそういうものだと理解する程度で特に何もしなくてもいい」という考え方が広まりました。
1762年、本山(西本願寺)から派遣された功存という僧侶がこれを批判します。
「往生が決まるには、阿弥陀さん、どうか往生させてくださいと願う心が必要です。
さらに、口でもそれを言上して、体で礼拝する行為(業)が必要です」と説きました。
功存は後に能化(のうけ)という本山の学問のトップに就きます。
1797年、功存に続いて能化となった智洞もこの説を継承し、さらに、「阿弥陀さんに
往生させてくださいと願う心こそ信心の中心である」と説きました。
これに対して、安芸(今の広島県)の大瀛(だいえい)という僧侶を中心に反論がなされます。
「親鸞さんは阿弥陀さんにおまかせする心こそ信心の中心だと仰った。にもかかわらず、
阿弥陀さんに往生させてくださいと願う心が信心の中心だというはおかしい。
往生が決まるためには私たちの行為が必要であるというのはもはや自力である」と。
功存・智洞の説を三業帰命説(さんごうきみょうせつ)とよぶことからこの論争を
三業惑乱(さんごうわくらん)とよび、この混乱は全国に飛び火します。
1806年、当時の門主本如(ほんにょ)上人から三業帰命説を明確に否定する「御裁断の書」が
発布されることで40年以上つづいた三業惑乱は終息をみます。
能登地域の寺院の集まりである能登二十五日講に「御裁断の書」と本如上人の御影が下付された
のは1829年になってからです。
「信明院殿御崇敬」の「信明院」とは本如上人の院号であり、
御崇敬は、私たちが正しく「信心」を理解し継承していこうという趣旨で始まった法座です。
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