住職ブログ

鏡御書を拝読

御崇敬では、ご消息を拝読するのが慣習となっている。

こんな機会がなければ目にすることもなかったわけで、とてもいい経験だったなと思う。

1日目に拝読したのが鏡御書。

最後に書かれた日が書いてあるので、1792年のものと分かる。

蓮如上人の御文章をお手本(鏡)として、親鸞さんの教えを正しく継承していきましょう。ということかな。

「そもそも真宗の行者信を決定すへきことわりは、中興上人おふみの上におちからを盡くしてあらわし給えり よりて歴代の善知識これを受けて教諭し 且つ此のふみを集めて一部五帖として人々に授与し給えり ここに旧記を開くに御一流の肝要をは御ふみに委しくあらわしととめられ候間 いまは申しまきらかすものもあるへからす この分をよくよく御心得あり御門徒中へも仰せられ候えと御遺言の由に候 然れば前住上人の御安心も御ふみの如く諸国の御門徒も御ふみの如く信を得られよとの事あかしのために御判をなされ候ことと云々 然れは御ふみを亀鑑として信を獲得あるへきこと肝要なりと知るへし 夫れ鏡はものをうつすに正曲をあやまざるを徳用とす たとえは鏡をとりて表てを照らすに若し塵垢を蒙むらば誰れかこれを洗い清めさるものなからんや 今もまたかくの如し 御ふみの鏡をもて心中に誤まれる塵垢の領解の表てを照らすに誰か非業たる心中の塵垢を正化の水に洗い清めさるや 御ふみの鏡によくよく表てをうつささるゆえに所々において解了種々不同なり 御ふみの鏡におのが心中を照らし見て とくも曲れる妄解をやめてたたしきにうつるへし 御ふみの文相について彼れ此れと妄分別をするままに安心の一途も種々にしてひとつことならさるように聞き及へり おおきに歎き思う処なり

偏に御ふみの如く領解して後生の一大事を決定あるへきものなり 自己の妄分別を執して 後世に開山聖人及ひ代々の善知識の御座ところにまいらさらん身となりはてなは千悔萬悔すともかいあるまし 常に親近し奉る覚悟にあらすはかのうへからす候 古賢の言葉にも古人の目みつから見るに短し故に鏡をもて表てを見る知 みづから見るに短かし故に道をもて己を正す目 鏡を失する時は鬚眉をたたす事なし 道を失する時は迷惑を知る事なしと言えり 御ふみの鏡をもて己が心中を照ささるにより妄解を執して迷いを知らす 御ふみの鏡に向いて曲れる心中をなおすへくは今度の往生は疑いあるへからすそれについて珍らしからす候えとも相承の一義をあらわすへし よくよく聴聞ありて異議あるへからす そもそも当流の正義と言うは別の仔細候わす 只もろもろの雑行雑修自力の執情を捨てはなれて一心に我等が後生御たすけ候えと如来の御そてにひしとすかりまいらす思いをなすへし この一念帰命のとき宿善開発のきさみ仏智他力の御回向によりて光明摂取の利益を蒙むり今身に大会衆のかずに入り後身に蓮華蔵世界にいたることをえつへし かくわか往生のやすく治定することは偏えに仏祖深遠の御恩徳なりと思惟して報謝のために晝夜朝暮に称名念仏すへきものなり とにかく一念に如来をたのみ奉ることくれくれ肝要なりと知るへし かたの如くその地門下の道俗一味の安心に住し御ふみの鏡に向いて一人ものこらすうつくしき領解の心中をうつくしくひとしからは今度の報土の往生は疑いあるへからさるも身に大会衆のかすに入り後身(ごしん)に蓮華蔵世界にいたることをえつへし かくわか往生のやすく治定することは偏に仏祖深遠の御恩徳なりと思惟して報謝のために晝夜朝暮に称名念仏すへきものなり とにかく一念に如来をたのみ奉ること くれくれ肝要なりと知るへし かたの如くその地門下の道俗一味の安心に住し御ふみの鏡に向いて一人ものこらすうつくしき領解の心中をうつくしくひとしからは今度の報土の往生は疑いあるへからさるものなり     あなかしこ あなかしこ

寛政四壬子秋九月中旬 (1792年)

御名判

能登国

法中

門徒中

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