御崇敬がくる

御裁断申明書の文面

ここ1か月毎日天気予報を見ています。

この暑さ、月末にはおさまるのだろうか?

何とか大丈夫そう。

でも、雨は困る。まして台風なら中止だ。そんな感じで天気予報を眺めています。

先日、紹介した御裁断申明書の文面は次の通り。

『そもそも当流安心の一義と言うは聞其名號信心歡喜乃至一念をもて他力安心の依憑とはするなり このことわりをやすく知らしめんか為めに、中興上人はさしよせてもろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて一心に阿弥陀如来我等か一大事の後生御たすけ候えとたのめとは教へ給へり よりて弥陀をたのむものは決定往生し たのまぬものは往生不定なりと前々住上人も仰せられたり また前住上人もみづから確かに弥陀をたのみたる一念の領解なき事を深く戒しめ給えり。この一念というは、宿善開発の機、その名号を聞持するときなり。このたのむ一念の信心なくは、今度の報土往生はかのうべからずと相承しはべりき。

然るに近来門葉のなかに、このたのむ一念につきて三業の儀則を穿鑿し、あるいは記憶の有無を沙汰し、殊に凡夫の妄心をおさへて金剛心とつのり、或いは自然の名をかり、義解などいふ珍しき名目をたて、種々妄説をなして道俗をまとわしむること、言語道断あさましき次第ならずや。これ予が教示のあまねからざる処にして、不徳の然らしむるにやと、朝に夕に寝食を忘れて深く心をいたましむる処なり。おのおのいか心得られ候や。

かみに示すが如く弥陀をたのむというは、他力の信心をやすく知らしめ給う教示なるが故に、たすけ給えといふは、唯(ただ)これ大悲の勅命に信順する心なり。されば善導は、「深く機を信じ、深く法を信ぜよ」と教へ給えり。まづわが身は極悪深重のあさましきものなれば地獄ならでは赴むくべきかたもなき身なりと知るを、ふかく機を信ずるといふなり。またかかる徒らものをあはれみましまして、願も行も仏体に成就して救わんと誓ひたまへる御すかた、即ち阿弥陀如来なりと思いて、我が往生を願力にまかせ奉つる心の少しも疑いなきを、法を信ずるとは言うなり。されば徒づらに信じ、徒づらにたのむにはあらず。雑行雑修自力をすてて、ふた心なく信ずるが、即ちたのむなるが故に、その心をあらわして、たすけ給へと弥陀をたのめとは教え給うなりき。更に凡夫不成の迷情を思いかたむる一念を、往生の正因と教へ給えるにはあらずと知るべし。この義は別紙にも述べ候得ども、なほまどいのとけざらんともがらもあるらめと、重ねて筆を染むるものなり。かまへて末学の書鈔等によりて、一流真実の義をとりまどうべからず。

されば事に大小あり、業に緩急あり。いましめす処は当流の肝要、われひと生死出離の大事なれば、これよりいそぐべきはなく、またこれよりおもきはあらざるべし。若しなほ我執をつのりて、過ちを改めずは、なかき世、開山聖人の御門徒たるべからざるものなり。こひ願はくは、心得惑ひたる人々、今日より後はいよいよ妄情をひるがへして、相承の正義にもとつかるべきことこそ肝要に候へ。古語にも其の愚を知るは大愚に非さるなり、其の惑を知るは大惑に非さるなりといへり。さればみづからまとふと知りてまとふものあらじ。まとふはまといを知らざるが故なり。かかる人は明者の指南に非ずは、誰かそのまといを解かんや。この旨よくよく分別あるべく候ふ。一息つかされば千載長く往くならいなれば、急ぎて信心決得あるべく候。

さて信心決定のうへには、行住座臥に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏恩を報謝し奉つり。王法国法に違戻なく、仁義の道を相たしなみ、如法に法義相続ありて、今度の往生を待ちうるばかりの身となられ候はば、予が本懐これにすぐべからず候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。

文化三丙寅年十一月

 

御名判

總坊主中

總門徒中                                                    』

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